By Lisa Maria Dellmuth, Senior Nereus Fellow
Stockholm Resilience Centre(ストックホルムレジリアンスセンター)
欧米の民主社会では、公共基準で芸術や文化財を供給するのが一般的である。この慣習により、多くの政治家たちが、芸術や文化を環境保護の基準を押し上げる政治的道具としてみなすようになっている。典型的な例として、芸術や文化に政府が関与していることにより、文化活動を行う際に生態学的に持続可能な開発に関して支持、主張すべきだと暗に要求されているのかどうかについてヨーロッパで現在討論されていることがあげられる。一般的には、ほとんどの人が、生態学的に持続可能な開発やその多面性(生物多様性の保護、世代間の資産、環境危険防止)を本質的に価値のある共有財産として捉えている。その上、海洋環境における生息地の破壊や、絶滅を危惧される魚種がいるという環境課題についての認識を持ち、批評的な思考を各々がすべきであるということは周知の事実だろう。だが、持続可能な開発を推奨するための政治的施策として、芸術文化は表現され、利用されるべきなのだろうか。多くの人が政府が文化的分野へ関与することに同意している中、助成金のようなものを税金では払いたくないと不満を漏らす人もいるかもしれない。文化助成金による公益として、個々の権利と持続可能な開発の推奨、この二者間のどこでバランスを取るか。ここでは、私たちは、政治的な選択に向かい合い、個々の権利を支持し論ずる。
文化助成金を通した公益として、個人の権利と持続可能な開発の推奨の間のどこでバランスを取るべきか?
最も広い意味で解釈すると、文化とは、芸術だけを指すのではなく、社会の中ですべての複雑な規範、価値、社会活動を表す。1982年のユネスコの文化政策(国際連合教育科学文化機関 United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization : UNESCO) 、メキシコシティー宣言によると、文化とは、私たちを人間にし、合理的な存在にし、批判的判断や道徳的な感覚を与えるものである。
文化芸術は、投資、観光、成長、個人や社会の幸福感も同様に高める源である。しかしながら、もし芸術家たちや、美術館、ギャラリー、劇場、オペラ、祭典を運営する企業が公的に助成されなかったら、文化的分野は繁栄しなかっただろう。この分野は、国際化やその意義を表すこと、特に知的財産権の分野における脆弱性があることは否めないので助成金が必要である。
芸術、文化、持続可能な開発の絡み合いは、国際法の中に基盤がある。特に、1992年にリオデジャネイロで開催されたUN会議(地球サミット/Earth Summit)では、政策分野を超えて押し進める原則として持続可能な開発が推奨された。文化政策は、地球サミット「アジェンダ21」の主要成果の中にはっきりと盛り込まれなかったが、サミットでの討論の中で重要な役割をもった。地域水準では、EU(ヨーロッパ連合)は、文化的分野に助成金を大幅に支給し、文化助成金によって持続可能な開発を推奨することを求める政策システムの一例である。EUは、持続可能な開発であり、才能の育成するための、いわゆる「horizontal」ファンディングを実施することによって、ヨーロッパの有産者から無産者に予算の3分の1以上を再分配し、それが持続可能な開発の原動力となることを信じて疑わない。EU資金は、少なくとも理論的には、国内公共投資を生態的な持続可能プロジェクトに補足し後援した。EU予算中から、3,5bn EUR が年間を通して芸術と文化的プロジェクトに充当される。
芸術に従事する人たちは、社会のタブーや規範を無視する傾向があり、だからこそ築かれた規則に疑問を感じ、新しい規範を築くことで新天地を開拓する。独自の政治路線に関して助成金を支給し、問題提起をするためには、国内の政治家にとって文化芸術分野は特に魅力的なのだ。国内での観点からら言えば、持続可能な開発に見られる政治目的のための文化芸術に対する助成と推奨に関しては、政治家、市民グループが議論したがる政治的問題の一つである。現代の例として、新しく選出されたスウェーデン政府による環境政策の手法として、芸術の公共機構化があげられる。そしてこれは、スウェーデンの公開討論の中でかなりの論争となっている。
ヨーロッパでは、文化芸術分野が政治化することはそれほど驚くことではない。サラザール、フランコ、ヒトラー政権の時代のように、小さな反民主主義のエリートによる文化芸術への弾圧を経験しているからである。ナショナリスト、ファシスト、しばしば人種差別の考えを増長する手段として文化が使われた。これは、今日の民主主義政権が同様に文化を弾圧するだろうと言っているわけではない。しかし、ヨーロッパの歴史上、多くの人は、政府が文化助成金にまつわる潜在的な問題について「高い感度」を持ち合わせている。さらに言えば、他の社会グループへ文化助成金を出すことは物議を醸すこととなる。文化助成金は、再分配政策の一部であり、社会階級にも関係性が出てくる中で、社会の広範に影響を及ぼす。文化への投資は、まず芸術家達を、有産者と無産者、大小、流行と衰退、に分類する。文化助成金の目的は、ある特定の種類の社会的行動を誘発するためであり、資金提供決定により、それらの階級に分けられ、階級の条件が何なのかということに関心が向けられる(社会階級にも)。この点で、文化助成金が政府の予算の小さな部分であるという事実は、利害関係を含んでいるという事実を変えるわけではない。論争には、「いくら」分配されるのかという質問は上がらず、「文化助成金は何を意味するか」が議論されるのである。
自由主義の見方から、持続可能な開発を押し進めるためのに文化政策を利用するには二つの問題がある。一つは、どんな助成金もゼロサムゲームの中に分配される。つまり、いくつかの芸術プロジェクトに融資することによって、他の芸術プロジェクトは、融資を全く受けられないのである。これでは、競争率の高い入札過程になるのが当然だ。2つ目は、持続可能な開発についての意識を周知するために文化芸術を利用することは、個人の権利や、芸術家や納税者にも制限を与える。さらに、もし、持続可能な開発が文化財を増やすことにつながらなかったら、持続可能な開発は、社会の経費で行われるだろう方法に覆されるかもしれない。これは、集団行動の障害と関係する。多くの世代に渡って費用をまかなう持続可能な開発のような公共財は、時間選好問題やフリーライダー問題(供給する費用を支払わないで便益を享受する)に陥りやすい。さらに、段階を踏むものについては、リターンがわかる前に大きな初期投資が必要とされる。後者の典型的な例は、持続可能な開発についての市民意識を高めることを目的としたギャラリーや芸術プロジェクトへの投資が挙げられる。
より広い範囲の環境政策議題において、文化芸術はどのような機能を持つべきなのだろうか。一方では、個人的権利の保護を遵守することは、全コミュニティーの公益として、持続可能な開発を覆すかもしれない。他方では、環境政策目的のための、文化を利用した政治権力によって過度に制限される。私たちは、個人の権利、個々の芸術家も納税者も守るべきだ。芸術の本質や質を評価する芸術家や美的論争は、政治的影響を受けるべきではなく、個人が自分の収入を配分する自由のうちにあるべきだ。環境課題は、緊急を要している上、越境するため、このジレンマについてはより広く批判的に、国内と国際両面から討論されるべきである。最後に、政治的、文化的俳優や学者、知的思想家たちの間で、情熱的で活発な公開討論がなされており、さらなる生態学的持続可能な開発のために道を拓くべく政治的活動への意識、知的思想、変化を高めるための可能性を秘めて
リサ・デルマス博士/政治学
ストックホルム
リサ・デルマス博士は、ネレウスプログラムのシニアリサーチフェローである。マンハイム大学で政治学の博士号を取得した。ネレウスの研究は、いつ、どのように、そしてなぜ世界海洋ガバナンスに擁護団体が集結し、影響力を持つのかを理解することに焦点を当てている。世界海洋ガバナンスの擁護団体、国内政治、国際政府組織間の連携の理解を高めるために、政治学と経済学からのツールを組み合わせている。