By Robert Blasiak, Nereus Program Fellow at Stockholm University
(Robert Blasiakによるドイツ語文献 Franz Dofleinの「Ostasienfahrt」(1906年)の翻訳、抜粋に基づく)
113年前まで時計を巻き戻してみよう。著名なドイツの動物学者Franz Dofleinが、日本沿岸の深海溝の海洋動植物を研究する最初の科学者になることを夢見て、2年間の旅に出るところだ。日本とロシア帝国が、開戦を宣言したという事態は問題であるが、数か月に及ぶ準備を中断することはできず、1904年の夏、彼は東アジア行きの蒸気船Prince Heinrichに乗り込むのである。
近年開かれたスエズ運河を通ったことに関しては、「世界貿易の偉業」であり、動物世界で重大な出来事だと記述する。船舶が行き来するように、動物たちも行き来する。(省略)インド太平洋の種は、何百万年もの間隔絶されてきた地中海に侵入してきている。Heinrich王子は、紅海に敷き詰められたサンゴ礁を通るコースを慎重に描きながら進んでいる。アデン(現在のイエメン)の植民地時代の港で小休止した後、モンスーン風を受けて南方へ動き出す。
数週間後、 Dofleinは、セイロン(現在のスリランカ)の沿岸線にあるヤシの木に驚嘆している。「突然、船全体が大きな衝撃で揺れ動いた。(省略)船員は興奮して走り回り、黒いスラッジで膝は覆われた。Heinrich王子は、港へのろのろと戻り、船を放棄しなければならない。Dofleinは、「シンハラの漁師はそのことをよく知っていたようだが、海図に表示されていなかったサンゴ礁に衝突したことを最終的に確認した。」一世紀後にこの場所は、サンゴ礁で有名な“Prince Heinrich’s Patch”としていまだ知られており、イギリスの田舎から持って来られた何千もの丸い石は今も海底に埋もれている。ずっと昔、極東の貨物と取り替えられ、船外に石を投げ捨てるまで、イギリスのスパイス貿易商がバラスト(脚荷)としてこれらの石を船に積んでいた。
コチンチナ(現在のベトナム)、マカオ、香港で停泊しながら数か月が経つ。彼の収集装置を乗せたDoflein船の一つが沈没する。彼は、最終的に日本に到着し、豊富で多様な海洋環境をもたらす寒流と暖流の交差を研究するために北東部で数週間過ごす。しかし、最終目的地、東京の南側と横浜に位置し、世界で最も深いトレンチの一部である海底、相模湾のことが頭から離れない。
これはまた、私がDoflein教授と通る道である。海洋研究を始め、Nereusプログラムに参加する以前は、私はドイツ語から英語への翻訳家として日本に住んでいた。週末には、岩場のビーチを歩き回り潮だまりをのぞき込むために、横浜から南、三浦半島へと旅行したものだ。Dofleinが、この半島の南端付近の油壷に到着した時、彼は収集用ネットを携えて、同じようにこの辺りを歩き回った。その時、油壷には全国で唯一の海洋研究所があったのだ。Dofleinは、油壷の初めての印象を次のように記述する。
「その道は狭く、これ以上人力車は進まない。私たちは太陽が沈む中、渓谷を降りて行き、滑らかな石の上を歩き進む。突然森林が終わり、泊まる予定の、小さな駅が建設された平坦な砂地が現れる。大きな窓ガラスの付いた二棟のこぎれいなアメリカンスタイルの木造建物があり、この小さな半島で化学研究を可能にする実用的な設備が整っている。海は、両側から輝きを放ち、この一続きの土地は200メートルもない。南へ行くと、急な崖が景色を遮り、建物の横には菜園が広がる。とてつもない静寂と孤独に包まれている。」
その翌週も多くの発見があった。青木という地元の漁師はその技量の良さで有名であり、その強さと能力に敬意を表し「熊」と呼ばれている。「最も簡易な漁具を使用しているのに、この男は限りなく深い相模湾から最も希少で最も驚く生き物を引き上げる。」その生き物の多くは新発見であり、Dofleinが記述し命名した。1906年、Dofleinはドイツで旅行記を出版し、一世紀後に、私が巡り合ったわけだ。
三浦半島での週末の散歩が、コンピューターの前で難しい翻訳をするよりも楽しい時間だと気づき、私は東京大学の海洋科学研究室の研究員になった。最近退職した海洋科学の教授とコーヒーを飲みながら、私はDofleinの本を取り出し、「熊」と油壷の海洋研究所について話した。その教授は、伝説の「熊」のことを知っているのはもちろんのこと、油壷に行ったことがあり、今でも東京大学の教授たちは、研究のために学生や奨学生を連れて行っているというのだ。
Dofleinが日本に訪問した時代と私が東京大学で過ごした時代との、日本のあまりの変化に感銘を覚える。例えば、今年発表された海洋政策の文献調査では、今日、東京は、世界で最も生産的な海洋科学の中心地であるのだ。Dofleinは、日本への道を切り拓いた初期の研究者の一人であるため、国際提携がこの成長を促すのに役立ったようだ。研究者の中で最も有名なのは、相模湾に魅了されたドイツのLudwig Döderlein 教授であり、友人である東京大学の箕作佳吉教授とこの熱意を分かち合った。1886年、箕作教授は油壷で海洋研究所を設立し、日本の海洋科学の創始者の一人として称賛されている。
1世紀以上を経た今、ネレウスプログラムは国際的な科学提携の先端をいく例となっている。ババリアのRegent Luitpold 王子は、 Dofleinの2年間の航海資金を提供した。今、日本財団が資金提供し、海の未来の理解を深めることを共通目標として、多くの異なる国の科学者と若手研究者を集めた。プログラムに参加し、提携する機会を与えてもらったことに感謝している。そして、もし時間を見つけ、Doflein教授の本の1、2章を英語に翻訳したい。そうすることで、もっと読者層を広げ、今日も成長を遂げている国際的な海洋研究協力の始まりを垣間見ることが出来るだろう。
ROBERT BLASIAK PHD 国際協力
ストックホルム
Robert Blasiakは、ストックホルムレジリアンスセンターのポスドク研究員であり、東京大学の客員研究員である。東京大学で博士号を取得し、国家間の紛争と協力が海洋資源の保全と持続可能な利用にどのような影響を与えるかに焦点を当てた。現在の研究では、国々がいかに持続可能な海洋管理を促進できるかだけでなく、多国籍企業、政府間機関、非政府組織が果たす重要な役割にも着目している。